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自分史つくり

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PCで綴る思い出の「Book」-自分史つくり

北原さん

わが青春は・・・「学徒動員」!(blog&自分史つくり担当の青木が代筆)
                  SNK会員:北原治夫
昭和19年より朝倉中学5年生は朝倉郡三輪村の原地蔵にある太刀洗航空隊に学徒動員として働く事になった。
以下の写真は「北原さん・・・4兄弟」長男、次男、3男そして、本人:北原治夫、
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仕事の内容は広い飛行場の野ツ原の吹きさらしのところで97式戦闘機の整備、
機関砲の弾詰め、97式戦闘機、偵察機のエンジンの下からテンパを回して、回しているテンパが軽くなると“テンパよし”と言うとテストパイロットが復唱してエンジンの
チヨークを引いてエンジンがかかる。
「よーし!」と手が挙がる。




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車留めを外し、また「良~し!」と言って機体から離れると操縦士が復唱して飛んで
いった。
そんなエンジン始動なら良い方で、練習機はプロペラの1方の端に皮製の袋を引っかけてそれについている10メートル位の長さの太いゴム紐を10人位で左右に引っ張ってゆき飛行隊の職員がヨシッ!と言ってプロペラを回すと、その反動でエンジンかかる。
オーライである。
それと一緒に手を外し後ろに下がらないと、プロペラに巻き込まれて亡くなった職員が何人かいると聞いていた。こんな事で戦争に勝てるわけがない。
ある時は97式偵察機が下りてきてしばらくして、ぽんぽん何か音がしてきたので外に出てみると10分ぐらい前に降りてきた97式偵察機が燃え機関砲の弾丸がパンパン音を立てて飛び散っているような音がし出した。
もう手がつけられない,
皆あらあら言うばかりである。
甘木の方から自転車で左腰にダンビラ下げて太刀洗航空隊に行っている下士官と会っていたがその人たちがテストパイロットだと後で分かった。
飛行機の整備が悪いときには薄黒い煙を吐いて飛び上がっていたが、結果はあまりよくなかった。
飛行隊の整備士が最後に点検して、“整備点検良し”でテストパイロットが搭乗して飛んで行く燃料が余り良くなくて、松根油をガソリンに混ぜているのであまり調子が良くなく
田圃に墜落して飛行靴だけ残っていたと聞いた事がある。
ある日、その日は仕事がひまでボヤーとしていたのだろうテストパイロットから「飛行機をとりに行くから、良いならお前もついて来ないか」と言われたので1も2もなく「はい」と言って付いて行くと掩体壕まで行き戦闘機のエンジンをかけ後ろに乗れと言うので、生まれて初めて飛行機と言うものに乗った、が乗ってみると飛んでいるときならスーと飛んで気持ちがいいのだが地上をガタガタ車が転げて行くのはいくら飛行機といっても気持ちのあまり良いものじゃなかった。
しかし練習生でも戦闘機に乗って飛んでいる時揺れるので酔う人がいるそうである。
それでも本当の戦闘機の動いているのに乗った奴は俺1人だけじゃろがと・・・
友達に自慢したものでした。
先生も「お前は運が良かったね」と言われた。
後で気が付いたがこの戦闘機は新しい型の「ショウキ」か何かだったのだろう操縦士が
プルッとエンジンをかけたのでびっくりした。
1回目の空襲は、中学校の卒業式で校長戒警報だったが今日も同じだから,こちらに
来るから、卒業式はこれで終わりとする。
皆早く家に帰ってください!と言った時には遠くに、ボガボガ爆弾の破裂する音が遠くでし出したし、校舎のガラスが爆弾の破裂の振動で何枚か割れる音がした。
あとで聞いた話ではそのときは立石小学校の生徒が甘木の高射砲隊の隊員と間違えられて機銃掃射されたらしい。
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甘木の高射砲隊(後の幹部候補生学校)と言えば横綱双葉山が来て土俵入りをを見たが素晴らしい物でした。
太刀洗航空隊の方でも警戒警報がなったら、花立山へ行く練習をしていたので、1回目の空襲の時其の通りしたので爆死した人が大勢いたようで,今の三輪中学校が避病院だったのでそこで火葬をしたようである。
久光の熊ヶ山にも火葬して祭った記念碑が立っている。
3月に卒業する者、つまり5年生は太刀洗には行かなくて良くなった。
1級下の4年生から5年制が4年制に制度が変わり帽子は戦闘帽となり、服は国防色となった。
服のボタンは焼き物の陶器、帽子の記章も陶器となった。
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3月31日太刀洗駅前の堤先生のうちは娘さんと奥さんだけだから三輪村の者は皆で
「車力」で家財を運んでくれと学校から言われたので、行ったが10分ぐらいして警戒警報がなり始めたので、又空襲でやられるから今日は、やめて帰ろうと言って解散して太刀洗製作所の映画館、西村小太郎戦車隊長、久留米出身の俳優藤田進の姿三四郎や加藤隼戦闘隊長の映画を見て帰っていた所まで来たとき、けたたましく空襲警報のサイレンが
鳴った。
そら来たと言って2人で、そこから家まで4キロを下駄はいて弁当だけは手から離さず、走ったが野町という集落の1番手前のところで飛行機の音が聞こえてきたので何気なく、ひょっと上を向いたと同時にB29の編隊が真上に来て豆炭のような爆弾をバラバラッと落とした。そら落としたぞと走ったが、あの爆弾の落ちてくる音「ゾ~ッ」とするような音、身の毛のよだつとはこのことかと後で思った。
ザーザーという気味の悪い音、足がすくんで、動けなくなるのを我慢して走った。爆弾の落ちる速さの方が速く太刀洗製作所にボガボガ落ちる音、それは本当に地獄である。2KMぐらい走ったところにお宮があり、木が茂って、兵隊が1人出てきて、危ないからここに入って来いと言ったけど、入らずに2人で走って家に帰りついた。
幸い機銃掃射も無く助かったが後で気がついたが弁当箱も下駄も何処で我が身から外れて何処へ逃げて入ったものやら。
「卒業式」
今日は昭和20年3月26日18歳の誕生日である。明日は中学校の卒業式である。
朝から警戒警報のサイレンが鳴り、空を見上げるとB29が1機飛んできて,そのまま何処かへ飛んでいってしまった。翌日は1回目の空襲で、昨日のB29は27日の爆撃のための偵察機だったのである、中学校の卒業式で校長先生の御話の最中に警戒警報が鳴り響いた。「昨日もB29が豊後水道を西北進中の警戒警報だったが今日も同じだから,こちらに来るから、卒業式はこれで終わりとする。皆早く家に帰ってください.」と言はれた時には、ボガボガ爆弾の破裂する音が遠くでし出したし、校舎のガラスが爆弾の破裂の振動で何枚か割れる音がした。
あとで聞いた話ではそのときは甘木の立石小学校の生徒が高射砲隊(生徒隊)の横の道を通って帰っていたので隊員と間違えられて機銃掃射されたらしい。
甘木の高射砲隊と言えば横綱双葉山が来て土俵入りを見たが素晴らしかった。太刀洗航空隊の方でも警戒警報がなったら、花立山へ行く練習をしていたので、1回目の空襲の時其の通りしたので爆死した人が大勢いたようで,今の三輪中学校が避病院だったのでそこで火葬をしたようである。
久光の熊ヶ山にも火葬して祭った記念碑が立っている。
この熊ヶ山は田圃の中にある10mか15mぐらいの高さの山であるが、寒稽古や暑稽古に朝早く母親の里の前の道を通っていると狐が啼いている。
その声が雄狐はコンコンと雌はギャアー、ギャアーと啼くと言うけど、コンコンと啼くのを聞いた事は1度も無い。あのギャーと泣く声は気持ちがわるいものだ。山羊が居る家も、前を通ると必ず、メーと啼いていた。
3月に卒業する者、つまり5年生は太刀洗には行かなくて良くなった。
1級下の4年生から5年制が4年制に制度が変わり帽子は戦闘帽となり、服は国防色となった。
服のボタンは焼き物の陶器、帽子の記章も陶器となった。

3月31日太刀洗駅前の堤先生のうちは娘さんと奥さんだけだから三輪村の者は皆で車力で家財を運んでくれと学校から言われたので、行ったが10分ぐらいして警戒警報がなり始めたので、又空襲でやられるから今日は、やめて帰ろうと言って解散して太刀洗製作所の映画館、西村小太郎戦車隊長、久留米出身の俳優藤田進の姿三四郎や加藤隼戦闘隊長の映画を見て帰っていた所まで来たとき、けたたましく空襲警報のサイレンが鳴った。
そら来たと言って2人で、そこから家まで4キロを下駄はいて弁当だけは手から離さず、走ったが野町という集落の1番手前のところで飛行機の音が聞こえてきたので何気なく、ひょっと上を向いたと同時にB29の編隊が真上に来て豆炭のような爆弾をバラバラッと落とした。
そら落としたぞと走ったが、あの爆弾の落ちてくる音ゾッつとするような音、身の毛のよだつとはこのことかと後で思った。ザーザーザーザーという気味の悪い音、足がすくんで、動けなくなるのを我慢して走った。
爆弾の落ちる速さの方が速く太刀洗製作所にボガボガ落ちる音、それは本当に地獄である。2KMぐらい走ったところにお宮があり、木が茂って、兵隊が1人出てきて、危ないからここに入って来いと言ったけど、入らずに2人で走って家に帰りついた。
幸い機銃掃射も無く助かった。が後で気がついたが弁当箱も下駄も何処で我が身から外れて何処へ逃げて行ったやら。

日本の重戦がB29爆撃機に体当たり
4月18日雑餉隈の渡辺製作所から太刀洗製作所に飛行機の部品が列車で輸送していたので、基山駅で鹿児島本線から甘木線に積み替えの作業に学徒動員の仕事が変わって、基山駅に行っているとき、ドドンと音が聞こえたような気がしたので後ろを見ると白い煙が上がっていたので、運転手の兵隊さんに言ったので直ぐ車を止めて、杉の木が7本ぐらい立っていた所の下で見ていたが、恐ろしいけど見たいもので、上を見ていると日本の重戦がB29のしたからどんどんB29に近ずいて行ってB29の尾翼に当たり、その勢いでB29の上に上がり今度は上から右の主翼に落ちかかったのでそのB29は、ぐらーとゆっくり回転し始めて、どんどん錐揉みが速くなって、小郡の蒲池脳病院の付近に落ちたらしい。
「ワーイ、ヤッタヤッタ!」と万歳万歳だった。
最初にあたって落ちた尾翼は佐藤鴨料理店の横のお宮の境内に落ちていたが17,8歳ぐらいの兵隊だった。
俺と同じ位かな?・・・俺も今からいくのだな~と思った。

練習機の“イングマンも、よく田植えしたばかりの田圃で逆さまになって田の草取りの加勢をしていた。
海軍特別幹部練習生2期生
我が家は飛行隊から4キロしか離れていないから練習機のイングマンなどが田植えをした水田に逆たんぶりにひっくり返っていた。
兄弟4人長男は19年に海軍に、最後に海軍の水測兵として志願して相浦海兵団、
カッター訓練、ハンモック吊りの上げ下ろし等で練われた。
ハンモック吊りもカッター訓練も大変なものでカッター訓練ではカッター漕いだ後は
しりの皮が剥けて血でズボンが尻にひっついていた。
又ハンモック吊卸しでは、はじめはみな要領が悪くいくら〆ても要領が悪く、べろ~っと毛布がはみ出してくると、その兵隊はハンモック引き担げて兵舎を1回、廻って来いとやられたがすぐにしまるようになる。
ハンモックは日本海海戦の戦艦三笠の前に東郷元帥が立っているその後ろの艦橋の回りに白い丸いものがハンモックで海戦になる前に防護のためロープでくくりつけたり、艦が沈むとき、浮き袋にすると聞いたが、幸か不幸かそんな経験はなかった。
水泳でも1分隊、陸軍なら1中隊で3人泳げない人が居たが、海軍兵学校の生徒でも1学年で3人位居たようである。
1月経って横須賀海軍対潜学校に入校、そのとき初めて富士山の姿を見て、九州と四国の兵隊は感激したものでした。
1月位たって横須賀海軍水雷学校久里浜分校と校名が変わった。
田舎者ばかりだから、「富士山が見えるぞ!」と感激したが、天気の良い日は上から3分ぐらいが見えていた。
其の時は気持ちがよかった。
入校して1月位して横須賀海軍水雷学校久里浜分校となった。
卒業式の翌日かその翌々日か2月か3月ごろから忘れたが基山駅へ又動員で行くようになり、雑餉隈より太刀洗へ飛行機の部品が来ていたので、その部品を甘木線に積み替える仕事に替わり、大刀洗の兵隊さんがわが家の前の桜並木の下に車は置いて運転手は何処に止まっていたか知らないが、トラックで送り迎いを毎日してくれたが 3月 31日に松崎駅の前まで来たときに後ろの方でおドドンと大きな音がしたので後ろを見ると白い煙が上がっていたのですぐ車を止めて、大きな杉の木が5、6本ある下でおそるおそる見ていると案の定B29の編隊が飛んできた。
その時我軍の胴が2つになった重戦闘機と言って胴が2本、所謂双胴の戦闘機が右の方から急に上がって来て一番後のB29の尾翼の下から上に突き抜けて、また下に向かって急降下して右翼煮当たったので、右翼がパッと散った。
途端にB29の機体がグラ~ッときたが、それから錐揉みがだんだん早くなっていった。
そのまま直ぐに小郡の町に行ったが,今の佐藤鴨料理店の横のお宮の庭に最初当たった尾翼が、中に1人、余り年が変わらない位の若い兵隊がごろ寝していた。
後で聞いたが大きい機体は蒲池脳病院の前の道を挟んで向こうに落ちていたそうである。
B29の乗員は操縦士、爆弾照準係と機上整備兵で11人か12人だったらしい。
終戦になる2日前学校の横の山に砲台を据え終わったが、その日アメリカの爆撃機が東京湾を海面すれすれに東京の方向に飛んでいったが、翌日1人日本のトラックに座って目は包帯を巻いて覆面のようにしてどこかへ運ばれていた。
それから2,3日して終戦となり、それから10日横須賀の大津高等女学校の警備に、アメリカ軍が上陸して来るからと竹槍を作って警備に当たった。
一方では班から2人づつ出て全部で15~6人出て、2人で1個の「モッコ」に1個づつ防空壕から爆雷を運び出して、学校の前の海で電気で爆破するため使役の籤に当たり、運んでいたが東京か大阪の人間が、「もう戦争は負けておわったから、俺たちは兵隊じゃないから、こんな事はする必要は無いよ、いまさら馬鹿らしい!」と言って、其の爆雷を転がしたので他の者が持っていた爆雷にも誘発して全員名誉の戦死となってしまった。
同じ班の者で長崎の者が居たようだった。

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大阪の奥野章兵曹も頼まれたけど、俺だけ生きておめおめと彼の荷物は持って行かれないと断ったと言っていた。
12月引揚げ援護局から引揚げ船の船員の募集があり、佐世保の国鉄大村線小串郷駅に行った。
そこは戦時中はベニヤ板で作った船に爆薬を積んで敵の船に突き当たる特攻隊の基地野痕だった。
まだ其の時草色に塗った船が残っていた。
そこで5名指名され呉にある海防艦伊王に乗船した。
其の時の班長は特別幹部練習生の一期生で上田瑞穂一等兵曹だった。
俺は二期生で二等兵曹である。・・・そうそう忘れていたが呉に行った時岸壁に係留されていたのが、爆撃されたのだろう軍艦が沈んで舳先の人間の背丈ぐらいの菊の御紋章だけ水面から出ていたのを思い出した。
奄美大島を通り、沖縄を通る時、島が一杯あるので、島のあいだを行くのかなと思っていたが何のなんの全然島も何も全然見えない。翌日の16:00頃基隆に付いたが其の2時間前ぐらいには鮫が船の周りに集まってきて、ぐるぐるお互い折り重なって、泳ぎ回っていた。何度見てもゾッとした。
復員
最後の教班長は道永上等兵曹で鹿児島出身で名古屋の電気会社の野球の選手だったと言っていたが、兄も対潜学校に去年入校していると言ったところ、持っていた帳面を出して俺が教えているぞと言って、家に手紙を出す時は持って来い外出した時出してやるからと言ってくれた。
いよいよ復員するようになり、博多の山内義剛、大阪の奥野章など仲の良い者同士4,5人で一緒に帰ろうと思ったが分からなくなり、幸い下の家の重義君と一緒だからどうせ帰るなら大船で一寸汽車を乗り換えて東京駅に1回行って見て帰ろうと東京駅に行きホームの高いところから前を見ると白い塀がある大きな屋敷の家だけぽつんと残って、回りは1軒も家が無い。
すぐに宮城だろうと感づいた。
東京駅のホームの屋根も少ししか残っていなかった。
教官から「お前たちは帰っても博多は博多駅とほかに2軒しか家は残っていないぞと言われたので本当かなとおもった。
帰って見ると兄弟で1番先に帰りついたのだった。
3人の兄はまだだった。
博多の山内は一人で帰ったので衣嚢を列車の中で盗まれて何も無かったと後日悔やんでいた。
あの時山内を見つけて一緒に帰っていたならそんなことも無かったのに。
卒業式のその翌々日か2月か3月ごろから基山駅へ又動員で行くようになり、雑餉隈より太刀洗へ飛行機の部品が来ていたので、その部品を甘木線に積み替える仕事に替わり、大刀洗の兵隊さんがトラックで送り迎いを毎日してくれたが 3月 31日に松崎駅の前まで来たときに後ろの方でおドドンと大きな音がしたので後ろを見ると白い煙が上がっていたのですぐ車を止めて、大きな杉の木が5、6本ある下でおそるおそる見ていると案の定B29の編隊が飛んできた。その時我軍の胴が2つになった重戦闘機と言って胴が2本、所謂双胴の戦闘機が右の方から急に上がって来て一番後のB29の尾翼の下から上に突き抜けて、また下に向かって急降下して右翼煮当たったので、右翼がパッと散った。途端にB29の機体がぐら~っときたが、それから錐揉みがだんだん早くなっていった。
そのまま直ぐに小郡の町に行ったが,今の佐藤鴨料理店の横のお宮の庭に最初当たった尾翼が、中に1人、余り年が変わらない位の若い兵隊がごろ寝していた。後で聞いたが大きい機体は蒲池脳病院の前の道を挟んで向こうに落ちていたそうである。B29の乗員(操縦士、爆弾照準係と機上整備兵で11人か12人だったらしい。久里浜から横須賀の海兵団に歩いて途中浦賀の軍港の横を通り,軍艦旗高揚中だったので挙手しながら行軍した事を思い出した。軍港の横が公園でペルリー上陸記念碑のところが何時も外出、集合となっていたが、
ある時1人集合場所で居なくなり三日位たって親が付き添うて帰って来たようである。
いわゆる脱走である。
だが2,3日経って終戦となった。
埼玉県という話だった。
相浦海兵団でも夜中に総員起こしが掛り、吃驚して飛び起きたが徴募兵が脱走しようとして営門から出ようとしてひっ捕まっていた。

復員船
昭和20年12月復員処理委員会で復員船員の募集があったので応募して大村線の小串郷駅に兵器処理委員会があり、そこから各地に配置され、我らも山川一等飛行塀曹、中川上等兵等と5名、呉軍港に停泊している海防艦伊王に乗艦した。
艦長は元参謀の海軍大佐だった。伊王の横には海軍の船が舳先だけ出して沈んでいたが
舳先に菊の御紋が出ていたが自分の身長位の太さだった。吃驚した。
by mayowaka-777 | 2015-12-10 21:04 | 気の向くままに・・・